December 24,2001

自家製のゆず を三ついただき、冬至に二つ、冬至の前の日には一つ入れてゆず湯に入った。
年も暮れて一年の計、とはいうものの、年末になっても、色々と、変化があるから、
もし一年という区切りで振り返るとすれば、これは大晦日にならないとわからない。
ともあれ、体は、芯から温まったと思う。

今夜は、ラベンダーオイルを入れた風呂。
アロマだの、エッセンシャルオイルだのというと、
何か難しいような、流行もののような、独自の世界であるかのような、
気がするかもしれないが、その実、いたって簡単なもの。ゆず湯もアロマバスに他ならない。
シャンプーや石鹸、整髪料を見ると、実に様々の人工的な香りがついている、辟易する。
白湯と同じことで、無香料タイプのシャンプーや石鹸を用い、
必要な時に、エッセンシャルオイルを僅かに足すと、好みの、良い香りがえられる。
普段風呂には何も入れないが、たまに入れてみると面白いものだ。

アロマなどと言い出すと、「癒し」という言葉がセットになっているようだが、
僕はこの流行りの言葉が嫌い。本来的な癒しという言葉はともあれ、この流行りの言葉は性に合わない。
人間、どっと疲れて良く食べて、バタンと眠る、これは実に気持ちが良い。
平坦な暮らしよりは、そういったメリハリのあるほうが、良いに決まっている。
そこには当然癒しの要素が存在するだろう。
しかし今の社会の、複雑化し過ぎた日々の暮らしによるストレスは、
「香りのある湯と対になるもの」には、全く思えない。
何かもう少し「調和した」暮らしが出来ないものだろうか、とはいつも思うこと。

しかしそう思う時、思考が自我分裂に陥ってしまう、これが避けられない。
やはり自分の、現実に生きている世界と、理想に描く世界とが、大きく離れているからだ。
もう少し皆がユッタリと暮らせないものだろうか、という理想と、自分の選んでいる現実。
理想を目指すことは、何であっても常に難しいが、
それが仮にも現実の延長上にあるのと、そうでないのとでは、話が全く違ってくる。
結局の所は、そうした自我分裂を容認したままで生きているのが僕の現状だ。
無理に自分に言い聞かせるとすれば、色々の意味で「力をつけて」、
いつの日か、理想もとい、理想と遊離しない現実生活を掴めれば、と思っている。

強引に話を戻す。「香り」というと、
この秋「嫉妬の香り」というドラマがあった。「香り」に拘った設定となっていたが、
最近ありがちな複雑なドラマとは違い、気持ち良いほど思い切った話で、実に面白かった。
さて、このワクでは、以前「TRICK」を紹介したが、新年より、
「TRICK2」として再び登場。これは面白いはず。今から楽しみだ。

明日の晩はクリスマス・イヴ、良いクリスマスになりますように!!!


December 8,2001

♪ノンノンノン、ノンノンノン
「青い涙」。PUFFYの新曲なんかを久々に買った。
グループサウンズ時代の「謎の曲」?のカヴァーらしい。
作詞作曲「三田二郎」って・・・誰なんだ・・・。

で、両A面というのかな、カップリング「愛が止まらない」。
10年以上前のWinkのヒット曲、そのカヴァー。
もっともそれ自体Kylie Minogue"Turn It Into Love"のカヴァー。
Winkのヒット曲は洋楽カヴァーのインパクトのあるものが多く、
ローティーンのころ、どこへ行ってもかかっていて、思い出がある。
でこのPUFFY版なのだけど、これがなんだか・・・すごく良いんだなあ。
最初に聴いた時はパっとしない印象、折角カヴァーした割には・・・
と思っていたんだが、じっくり聴いてみると案外・・・いいアレンジ。

のっけから「PUFFYの話」だなんて、ここでは意外な感じだけど、
デビュー曲が陽水さんだし、結構好きだったりする。

でまあ、そのデビューの頃、5年前、ウチの妹も結構PUFFYが好きだった。
しかし今になると、なんだかもう、あまり興味が無いようだ。
今はもう、僕など全く知らないような曲を聴いている。
妹にとっては子供時代のアイドルに過ぎないのかもしれないし、
「愛が止まらない」に至っては、多分知らないだろう。
僕もグループサウンズ時代は、本当には、知らないし。

そんな世代の違いをちょっと感じたりもした。
最近じゃ、普段の生活で、色々な人と話しても、
自分より「後の」世代との違いを感じることも多くなってきた。
別にそれは悪い気分のすることではなく、何かすこし快い感じも有る。

近頃読んだ本の中に「移民の中での世代間問題」ということがあった。
ある日本人の「一世」が自分の意志で海外に移住したとして、
「二世」以降が完全にその地に馴染み、その地の人間になると、
一世は、色々と嬉しい気持ち、安堵する気持ちの一方で、
一抹の、なにか切ない気持ちのようなものを知るという。

こうしてネット世界の中をさまよい、遊びでも仕事でも学びでも、
全く「ネット時代」を生きる人間といった感じをもっているし、
自分の意志でもって、「わりと活用する」ことを選んだ。
だけれども、近い将来、「本当にネット時代に生まれた人間」
との間には、(その一世のように)なにか距離を感じるのかもしれない。

November 19,2001

例の「しし座流星群」を自宅のベランダで見た。空は良く晴れていた。
思ったよりも、随分と沢山見えて、きれいだった。
幾つかは儚げで、幾つかは凄みが有った。
普段、普通の流れ星を見ることはまず無い。たまに片田舎にいくと、当たり前のように見えて驚く。
そういうところでは、今晩など、普段の流星も見える上に、これも見えるのだから、すごいのだろう。
子供のころから、生き物(特に水中世界)に夢中で、それほど星には興味が無く、
望遠鏡よりは顕微鏡、雑草のディテールや、田んぼの水の中などの「小宇宙」を覗いて興奮していた僕。
最近だって、父が庭で小さな水瓶をいじって睡蓮の花がどうのだから見てみろといわれても、
気がつけば、花など二の次、その水の中の微少な生き物達をジーっと見ていたりやなんかする。
だけれども、もちろん星空を見て何も思わないなんてことはない。
「流星群をきっかけに、星空を眺める」
「そんなきっかけで、久しぶりに見上げる星空がすごいと思っていると流星が飛び交う」
星空というのは、長い間眺めていると、どんどんどんどん見えてくるのが感動だ。
都会では白っぽい星しか見えないことが多いが、しばらく眺めていると青い星や赤い星が沢山見えてくる。
宇宙の中に、地球が浮いていて、そこに自分がなんというか「重力で、居る」感じが実感できる。
それは事実なのだが、少なくとも僕は、普段あまり実感していないことだ。
日光、炎、人工的な光・・・光といえば、そんな中に居る生活だが、
星空を見上げれば、こんなにも沢山の「光」が他に有ったのだ・・・と気づく。
命の息づく星が「この中」にどれだけあるかわからないが、知る限り一つしかないわけで、
それだったら、それは大事にしなくてはならないと、ありきたりだが思う。
星空は確かにすごい。強力だ。だが彼らの殆どはただ虚空に存在しているだけ。
彼らを見上げている存在・・・といえば、ほんのどれだけ有るのかもわからない、

September 7,2001

何となしに放送大学を見ることがある。
このあいだは、社会心理学であっただろうか、「甘え」についての講義を聴いた。
※これについては有名な本が有るが僕は読んだことが無いし大学で社会心理学を履修したことはない。

話の中で印象に残ったのは、所謂「甘え」とは
「相互依存の関係であり、依存ではない」というくだり。
ある人がある人に対し、
「常軌を逸した行動を容認してもらえるのではないか」という期待を持ち、
期待される側も「そうした期待をもつことを容認する、または期待する」
といった関係を指すそうだ。ここで言う「常軌を逸した行動」とは、
「一般的に見て常識を超える行動」という意味ではなく、たとえば
「このHP日記を書く際は校正をかけよう」というのが「常軌」であり、
「まあいいか、それは(と閲覧してくれる方に期待する)」というのが「逸した行動」
といったレベルの話。極めて学術的な言葉の使い方である。
甘えという言葉をこの様に使っても間違いではないだろう。

さて、この僕が(俗に言うところの)「人間関係における甘え」云々について、
どうこう講じる、講じられる類の人間でないことは、
当サイト閲覧者ならばお察しの通り。そんなことは僕は知らない。

僕が興味をもったのは、「相互依存」(甘え)と「依存」の違い。
「依存=甘えでないもの」とは何か・・・、つまりこれは、
「2者間の一方的な期待だけでは状況を変えることが絶対に出来ない」
ことを指すのだ。依存という言葉は、
AというソフトはBというシステムでのみ動作する=AはBに依存している、
「僕のこの文章は日本語に依存している」という使い方が出来る。
ドライで学術的な言葉の使い方である。

さてどうだろう、僕は何に依存しているだろうか?人を対象とせず広く考えてみると・・・、
例えば体。幾ら体に「もう少しお酒を飲んで良いよね」と
(俗な意味で)甘えても、体が僕の甘えを期待することはない。
従ってこれは体に対する僕の一方的な依存であり、ここでいう甘えではない。
どうしたって体は悪くなってしまう=状況は変えられないのだ。

自然環境のほうに行ってみよう。これも同じ。
もう少しなら環境負荷をかけても良いよね、と地球に
(俗な意味で)甘えてみるが、これも違う。
僕らは地球に対し依存しているのである。
地球がこちらの甘えを期待し、
僕と地球の間で甘えの構造(相互依存)ができることは有り得ないのだ。
「地球環境を保つならば甘えは許されない」といったフレーズも良く聞くが、
「本当に甘えられない」のである。様々な事柄について、
AがBに依存しているかどうかを見極めることが大切のようである。
・・・と書いてみても、良いのではないかな、という僕の心は・・・甘えかな。
だけれども、僕の考えることは、僕の頭に依存しているわけで・・・と禅問答に入ったところで終り。
(長くてゴメンネ)



July 27,2001

実に夜風が心地よい。・・・こんなに良いものだったっけ、と少し感動するほど。
なにせ、ここしばらく、夜も、熱帯夜などという言葉では表現できないほどの暑さだったから。
風も無く雨も無く、全てが熱で止まっているような感じだった。
もう少しあのままだったら、何か違う季節が始まりそうな気すらしていた。



July 11,2001

●今クールのTV番組

どういうわけか、春から書き物の仕事をしている毎日だが、
PCに向かうことが殆どなので、ネット閲覧は随時(?)、
たまにTVを見るとこれが新鮮でもある。
「完全なる受け手」になりきれるのはそれはそれでいい。

今クールにおいては、火曜夜『ウソコイ』が面白い。
中井貴一、フェイ・ウォン。
若い婚約者(仲間由紀恵)との結婚を目前に控える
カメラマン鈴懸彰(中井貴一)が、
ファッションデザイナー志望の謎の外国人フェイ・リン(ウォン)
との偽装結婚騒動に巻き込まれる、という展開。
「中井貴一の困惑顔」が見物だ。
この人の、困り果てて焦った顔は昔から安定して面白い。
役所勤務の友人(生瀬勝久)に、
必死に中国語のレッスンを受け、
「我要離婚」と大声で練習するあたり、初回から抱腹絶倒。
この後の展開は恐らくコメディータッチのラブストーリー、
なんだかんだで面白くも切ない展開になりそう。
中井貴一(本当は山岳を撮りたいが、
ファッション誌などのカメラマンをやっている)
大杉漣(大物デザイナー)
彼らがオシャレな服に身を包んでいるあたりもなんとなく面白い。

その他では、日曜夜『恋がしたい 恋がしたい 恋がしたい』
(渡部篤郎、水野美紀、菅野美穂)も見てみようかなと思っている。
今週(第2回)を見逃してしまったのだが・・・。

もう一個注目なのは、春からの2クール企画、
火曜深夜『24人の加藤あい』
24名の著名な映像作家の手により、
毎週毎週、「加藤あい」CMが生まれるという、
なかなか興味深い番組。
撮影風景、言わばメイキング部分が殆どで、
30分番組の最後に「完成したCM」を鑑賞する。
「おおっあれはこういう意図だったのか!」と驚くことが多い。

というような感じでTVを見ている。




June 27, 2001

●梅雨らしい梅雨

どうも今年は梅雨らしい梅雨のようだ。
非常にジメジメとしており不快極まりない。
しかしこれも良いのではないだろうか。
本来日本の四季とはこういうものなのだから。
だけれども、ここ数年では、夏毎に、何か暑すぎる様な気がする。
暑い夏は好きだが、温暖化のため、ではトホホである。

最近のニュースでは、北海道での犬の事件があまりにも残念だ。
何者かの手により、十数匹もの犬が
(僕にわかるような)理由も無く殺されたのだ。
ここで言うまでもない小学校の事件と連続だからショックも大きい。

犯人に対する憎さというよりも、何故こういう事ができるのか、
何故こういう発想が頭に浮かぶのか、
全く解らない。ただただ解らない。

人と人との間では、色々と複雑なコミュニケーションが図れるため、
当然、その中では憎しみあいといった感情もうまれるであろう。
好きな人の数と同じくらい、嫌いな人もいる、
それは自然なことだと思う。
それを、行動としては抑制するのが大事なのだ。

最近の様々な事件を見ると、
この、抑制が効く、効かない、という問題も有るとは思う。

しかし、この、犬に対する行いでは、
そもそも、抑制するもしないも、
そういった感情がうまれることが解せない。

一部の動物とコミュニケーションを図ることは
言うまでもなく可能だが、そこから憎しみが生まれることはない。
あるとしたら、それは彼らから人間に対してであろう。

・・・それとも、今回のような異常な行いをした者は、
対象に憎しみなど持っていなかったのであろうか。
その行為自体が目的だとでもいうのだろうか。

それであれば、この行為はなおさら許し難い。
命はもちろん、周りの皆が楽しく生きる権利を、
「自らの歪んだ感情の為に」侵してはならない。

ちょっとしたことでもそうだと思う。
意地の悪い言葉で気に入らない他人をちょっと傷つけてやろう、
と言うような感情、これは押さえなくてはならない。
自分の気持ちと相手の被る痛手を良く考えたい。
本当の怒りは、然るべき局面の為にとっておくべきだ。
もちろん、そんなものは起らない方が良いに決まっているが。
本当に憎むべき相手と言うのは、少ないはずだ。

ともかく、こういったことは二度と起きて欲しくない。
そう願うのみである。

限りなく優しい犬達に対して、
僕は人間であることが恥ずかしい。

・・・ここを見てくれている人に、
こんなことを改めて言うまでもないし、
書く意味なんて無かったかもしれない。
でも、このやりきれない感情を書いてしまわないと、
他の話題を出すのも何か気が乗らなかった。


May 25, 2001

●金魚、その後

やった!彼(彼女?)は元気になった。
もはや、体は真っ赤に戻り、餌も元気に食べ、
勿論消化不良も無い。
治療・・・寝ずの番の甲斐があったというものだ。
あとは薬を徐々に抜き、徐々に通常水温に戻していく。
(これも難しいのだが・・・)

この病気(というか白点虫という厄介者)
は、温度28度以上に上げてやり、なおかつ治療薬を併用することで、
意外と簡単に退治することが出来る。

しかし問題なのは、その感染速度だ。
あっという間に魚が真っ白になってしまうことも有る。
エラに入ってしまうと致命的だ。

魚の体力が有るうちに迅速に処理するが、
温度上げに対し、魚が対応できない場合もあるし、
薬に弱い水草も考慮したい。ともかく厄介なのだ。

この病気、普段は殆ど出ない。
良好な水槽を管理していると、殆ど存在を忘れてしまう。
新しい魚を買ってきたり、
急な水かえで温度が下がったりしたときが要注意だ。

魚が元気になって良かった!命は大事!
ってなことなんだけど、

小さくても命は命、
しっかり意識することが大切。

もしも魚を飼うときは、
それがどういうルートでやってきたのか、
原産地がわかるならその土地はどういった自然状況なのか、
・・・お金で買うなら、
魚をお金で買うとは自らの心に聞いてどういう事か、
魚のエサはどこから来ているのか、
そんなことをしっかり考えたい。

僕の部屋のバルブは、こちらも7歳にして元気。
水替えをしようとしたら、ねえ、
寄ってきちゃって、危なくって水替えが出来ないよ。

May 20, 2001

●寝ずの番

看病をしている。何がって、
たった一匹の金魚、たった5cmの和金だ。

金魚や熱帯魚を飼ったことがある人なら、
きっと一度は経験のある白点病である。

今日うちに帰ってきてびっくりした。
「金魚が病気でお兄ちゃん何とかしてくれ」と。

僕の部屋では7年前から熱帯魚のバルブを飼育している。
(現在、お金を出して買うことはしていない)
だが、それとは別に、母が和金を二匹飼っていた。
これも大体7年前からいるらしい。
そこに、一週間前、父がポンと二匹金魚を飼ってきてしまった。
そしてその新しい二匹の流金はすぐ死んでしまったのだ。

父は魚のことを全然知らないからいけない。
それなのに魚を買ってきて、勝手に入れてしまったらしい。
よく馴染んでいる水槽に、
うかつに新しい魚を入れてはいけないのだ。
先住の魚に病気をうつす事がまま有る。
細心の注意を払わねばならない。
じじつ母はその後大変怒ったという。

ここで僕は気が付いておくべきだった。
新しく来た金魚は、恐らく水質急変で死んだのだと思ってしまい、
先住者に影響無しと判断してしまったのだ。
僕はこの水槽には、ふだんノータッチだったので、
こういう事態になってから、気が付いた。
夕方、僕が家に着き、すぐ呼ばれたときには、
一匹は既に死んでおり、もう一匹にはかなり白い斑点が有った。

今、この残りの一匹が頑張っている。
水温を徐々に上げていき、薬剤の濃度を調整しているため、
今は寝られない。だって結局僕がやるしかないのだ。

この和金、ともすれば、大型魚のエサとして売られている事も有る。
値段なんてないようなものだろう。
でも、関係が無い。もう7年もいるのだから。
ウチに17年いた犬、7年いた犬、10年いるカメ2匹、
らと全く同様だ。ただコイツに関しては、
主に母だけが面倒を見ていたということだけだ。

この病気、虫が離れてくれれば、割と治る事も有る。
僕はなんとかしてやりたい。

こうなると、こうして夜のさなか、こうして命の間際にいると、
20代半ばの男も、金魚も、別になんにも変わらない。
僕と、コイツがいるだけ。(白点虫も生きてるけどね)

生きていれば、毎日毎日、太陽を見ることが出来るんだ。
それは、とてもとても大切なこと。
頑張ろう。


May 11, 2001

●泡盛


今飲んでいるのが泡盛。
久米島産のものだ。

沖縄フェアみたいなものをやっていて、
酒好きの僕は迷うこと無く泡盛コーナーへ赴いた。
おばちゃんに試飲の名目で
強いのを沢山飲まされて、それが旨くて、
もう買わずにはいられなくなった。

売り子の方に、
島によって何が違うかと問うと、
水が違うのだと言う。

3年もの、5年もの、7年もの、12年もの、
と、あるらしい。
若いものはゴツゴツとした味わいで、
沖縄の方では、普段は安く若いものを割って飲むという。
年数を経たものはまろやかな味わいになっているらしい。

僕はハードな酒が好きで、
まろやかだの飲みやすいだのは好きじゃない。
するすると喉を通る酒は体質に合わない。
だから3年ものが欲しかったが、これは一升瓶しかない。
3年ものってのはドカドカ飲む人向けのようだ。
どうも一升瓶を買う気にはならない。
いつも飲んでいるウォッカやジンが大よそ700ml瓶だから。

それで5年もの700ml2000円で買ってきた。
度数は43。これをロックで飲む。

良い味わいだ。
なんでも、泡盛というのは、インディカ種の米から作るとか。
いわゆるタイ米といった方が良いかもしれない。
僕はタイランドも大好きだから、
このトロピカルな酒がますます合うのかもしれない。

ここで酒と言うのは、夜一人で飲む酒のこと。
晩酌というより、度数の強い寝酒を呷る習慣がある。
こうやって飲んで、ネットをいじくり、バタンと寝る訳だ。

僕は決まった酒を飲まない。気分次第だ。
部屋に2本酒があるということはなく、
ひと瓶、1、2週間かけて飲みきってから、
次にいく。

だから、なになにを飲んでいた時期というのが、
すごく記憶に残る。
淋しいことが有ったとき、呷ったあのジン、
爽やかすぎた夏の日に飲んだウォッカの香り、
そして今もちょっと淋しいことが有って、
飲むこの久米島の泡盛。
そしてまたいつか飲んだとき、
このときを思い出す。

今度これを飲むときは、
久米島で飲みたいと思う。



January 26, 2001



こうして書くのも気が引けるが、
今日は山の手線で痛ましい事故が起きたそうだ。

列車とホームとの間の溝、
これは大変危険なものなのだ。

これは受け売りだが、
太宰の本に書いて有ったことで印象深いことがある。
ホームの溝は大変危険だが、
皆、少なくとも見た目は何気なく毎日跨いでいる。
それから、(一昔前では)用を足す際の溝も非常に危険であるが、
これも一般にはいちいちその危険さを感じている訳ではないと。
しかし「私」はそれが気になって仕方が無い(かった)ようなものなのだと。
考え様によっては、全く気にしないでいても済むことなのに、
それが出来ない(かった)のだと。
そんなことが書いて有った様な気がする。

彼自身と、世の中との関係を、溝になぞらえている。
彼と世の中との間に溝が有るという意味ではないと思う。
彼にとっては、世の中にある様々のことが、
この「溝」の様に危険に感じてしまうのだと。
それでつまりは上手く列車に乗れないということだ。

僕にとっても、しじゅうその繰り返しだ。
他人から見たら、「なんであんなことを気にするのか」、
というところで僕はいつも躊躇している。
そのくせ、ある人から見たら、ある場面では、
「あんなことを気にするくせに、この溝はてんで気にしないのか」、
と訝しがられるくらいに、僕はお天気かもしれない。

溝を発見することは、それはそれで悪くない。
僕がこれまで気にしてきた溝も、
それはそれで、少なくとも僕にとっては存在しているのだから、
発見しないよりは良いのかもしれない。
もしかしたら、だれかに教えることが出来るのだから。
そのうえで、気にしないように務めればいいのだ。
或いは、気にしながらも、そこを跨いでいけばいいのだ。

だけれども、僕の発見した溝は、
やはり溝なのであって、山ではない。
苦闘の末に登頂する山ではなく、
ただただ落下してしまう溝もあるのだ。
それはただ、冷たく存在している。
そして僕は幾つかの溝には落ちたままだ。
僕の幾部分かは、落下してしまった。

そんな見方も出来るというだけの話で、
気にすることはない。
溝が有るかないかを気にしすぎていたら、
それそのものが溝になってしまうから。

だけれども、気をつけたいものだ。ね。
落ちない方が良いから。

君の見つけた溝を教えてくれ。
僕も、僕の見つけた溝を教えてあげるから。
僕は笑うかもしれない。
君は笑うかもしれない。
それでもいい、それは溝なんだ。重要なことなんだ。
なるべく落ちないように進んでいくんだ。

僕と仲良しの君、
君と僕とでは、もう溝は伝え合ったはずだ。
それが言葉でなくとも。
新しいのが有ったら教えてくれ。
僕は笑わない。




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