9/10

このサイトが気に入っている
大分前から知っていたけど最近又読みふけっている
http://www1.odn.ne.jp/~caa31720/index.html

なかでも こことか。
http://www1.odn.ne.jp/~caa31720/note_book_04.html

まだ大して読んでもいないのだけれど

「埼玉と群馬の県境
どうしようもないつまらない光景」

ぼくは ここに惹きつけられた

そしたらそれは 村上龍からの引用だった
そこの部分に僕は異様に吸いよせられていたり してる

僕は村上龍って殆ど読んだことが無い
このサイトでとりあげられてる「岡崎京子」も
多分雑誌か何かで10分か30分か7、8年前に読んだだけ

1996年に事故に遭っていたとはね
1995年くらいは僕は『クイックジャパン』なんての結構読んでたな
なんなんだろ 笑う

だってこの夏なんかは「谷崎」ばかり読んでたんだから
猫と庄造と なんとやら。 だとか。僕はこっちを読んじゃうよね。
僕は気が付けば昔の小説ばかり読んでいるの

「今」の小説やシリアスな漫画を読むのは 正直いって怖い 敬遠してる
気が付けば僕は 昔の本しか読んでない 昔の本しか読んでない

けどほんと この村上龍の書いてる

「あんまりにもつまらない どうしようもない風景」
「わざわざ美しいものを抹殺したその残滓みたいな風景」

そういう風景って
ある種それは罪だと思う それ自体が

たとえば

「お台場」って馬鹿見たいかもしれない

でも僕は「お台場」が嫌いじゃない
「六本木ヒルズ」も嫌いじゃない

好き

少なくともそれは 利根川のあたりより
きれいだと思うから 比べ物にならないくらい

どれだけ人工的でも 無機質でも
それらは 綺麗な風景を少なくとも志向している
誰かが美しいものを目指した その結果

・・・きれいなものがあるとして
そのキッカケなんて ある意味なんだっていい
そうも思うけど

けど逆も言えるわけで

実際目の前にある人工物が
どんな出来映えかどうかは べつとして
その裏に そのものを美しく作ろうとか
楽しく思えるものにしようとか言う 意図 思いが 有ったかどうか

綺麗なものや華やかなもの 楽しさ 夢
そういうことを求めることを

やめちゃったら 悲しいとおもうよ僕は
「戦争でもないのに」なんでこんなに悲しい風景があるんだろ

8/19

この夏は6月から、ハスの栽培を行なっている。
なんという理由も無く、タネをもらったので育ててみている。
タネは水に浸けておいたら直ぐ発芽した。

それで・・・。ホームセンターで買ってきた荒木田土とかいうのを
水を含ませてこねる。粘土みたいなやつだ。

この土を6lほどバケツに入れ、水深5cm位になる様にして見た。

そこにタネを入れてみると、あっという間に葉が広がった。
1ヶ月ほどで、立ち葉も2、3本現れ30cmほどの高さとなった。
花はまだ咲いていない。

しかし、用意したスイレン鉢(世の中にはそういうものがあるのだ)
が一つ空いてしまい、そのままではボウフラが湧くしカラでも淋しい、
気が付くとそこには母がホテイアオイを入れていた。

これがほったらかしの状態でとんでもない発育をみせ、
浮くのではなく「根づいて」しまって、ものすごいことになっている。
こんな風になるとは知りもしなかった。

ハスも美しいが、やはりそれは、手をかけてやって何とか保たれている感じ。
やはり植物は自然に、誰の手にもならずに伸びているのが一番美しい。

6/14


又おかしな事件が起きた。小六。

その事と関連して、

今時は小学生でもネットを駆使するという。
そりゃそうだろう。

しかし、自分の子供時代にそんなものがあったとすれば、
一体どんなことになったろうかと思う。

Googleなどの検索は、これはもう絶対便利だ。
もう少し頭が良くなっていたかもしれない(笑)

・・・僕はとりわけチャットや仲間内の小規模掲示板の類が苦手であり、
殆ど使用しない。

何かしらのテーマがあれば、
「そのことについて」真剣に論議するのは好きだが、
「馴れ合いでどうでもいいことを喋る」のは、どうも上手く出来ない。

僕はケイタイメールを殆ど使用できない。
その最後のほうの世代と思われるが、
これも、なんとなく、くだらない、尻切れとんぼな、
ぞんざいなやりとりになりがちだから、嫌いなのだ。
連絡事項以外、とくに使用したいとも思わない。

10代の頃、こんな物が無くて本当に良かった。

さて実生活、実際にあっての会話でも
「喋りすぎると喧嘩になる」というのは良く有ること。
喧嘩にならないまでも、メシでも食べながら楽しく話したつもりが、
何か喋りすぎたようで、どうせなら会わないほうが良かった
なんてことが良くある。

「喧嘩」からはじまると、仲直りしたりするし、
重い悩みを相談すれば、それなりにはスッキリしたりするものだが、
逆に、くだらない話をなんとなく喋って、結果不愉快になることが案外多い。
なんともやりきれない気持ちになる。こういうの、心当たりが有ると思う。

「議論」であれば、白熱しても、それは喧嘩ではない。
僕は実生活ではさして理屈っぽくも無いが、議論ぎらいではない。
ネットにおける議論は好きだ。口調などの非言語的要素に惑わされたりせず、
じっくりと、時には何日、何箇月もかけて、
ログを参照しながら議論することが出来る。
この側面はすばらしいし、子供にも活用して欲しいと思う。

「マスコミの時代」も、それはそれで、・・・いやいや、
それこそ化け物じみた、異常なものであったと思う。80年代であるとか。
その異常さに比べれば、「マスコミも健在でありながら、
誰もがネットで意見を発信できる、議論できる」今の時代は、たいへん健全だと思う。

で、話が戻るわけだが、今回あさましい事件が起きたわけだ。
僕はこうした極端な事件に(不適切な言い方だが)興味が無いので、
この事件についてはあえて触れず、一般論として書くが、
(僕はあまりにも極端な例(それは往々にして目立つ)を論じることは嫌いなのだ)

「なんとなく」しゃべる、上にも書いたが、僕はこのことがきにかかった。

子供・・・高校生くらいもそうだろうか、ケイタイメールやチャットに熱中していれば、
「なんとなくしゃべる」ことが半ば義務的になってしまうのではなかろうか。
そして、そのログが残る。あるいは仲間が見る。
子供がこういう場を持つと、ときにそれは、
たとえば、強い捻じ曲がった憎悪をよんでしまうのではないだろうか。
90年代なかば、女子高生などがポケベルで遊んでいた頃も、
それでトラブルが起きたりしたことは少なからず有ったという。

僕らの頃(子供といわれたのは90年代前半まで)であれば、
イヤなやつになにかひどいことを言われても、
忘れるということが出来た。あるいは、
ホントのお子様時代なら、肉体をもって喧嘩をすることも出来た。

しかし今では、何を言った、かにを言ったとWeb上に証拠が残されてしまうだろうし、
お子様とは言えちょっとばかり殴ったりすれば、
そこを写メールに撮られてネットにアップされてしまうかもしれない。
ひどいことを書かれたとして、その画面を何度でも何度でも見直すことが出来る。
これでは、たとえば「憎しみの気持ち」が高まるのもやむを得ないだろう。

大人であってすら、このあたりのコントロールに苦しむ人も多いという。
ましてや思春期前後の子供にそんなコントロールができるのだろうか。

だからといって子供からネット環境を取り上げよとは思わない。
「やっぱり実際に会ってのコミュニケーションが本物だ」
などという理屈は今更古い。それに、その論法は強引だ。
それならテレビも手紙も電話も全部止めたほうが良いし、
極論すれば小説も読むなということになる。僕は太宰治に会ったことはないよ。

遠く離れた友達等とメールのやりとりが出来て心の支えとなったり、
悩みを持つ生徒が、学校の先生にこっそり悩みを打ち明けたり出来る、
子供たちにとって、こんなメリットは否定できない。

世の中、例えばネットの普及といった「新しい段階」に差し掛かれば、
何かしら難しい問題に直面するのもやむを得ない。
難しいところだが、何とか良いかたちに落ち着いて欲しいと願う。

5/29

陽水さんの歌で

『人生が二度あれば』 というのがある

真剣に聴いたのは23の時だったと思う

それまでにもこの歌は幾度と無く耳にしてはいたけれど

10代の僕は、人生なんて
「一度きりだから良い」んであって

それを二度「やり直したい」なんて
野暮っていうか、欲張りだとさえ思っていた。

高校の先生(40代)が、「生まれ変わる薬が欲しい」だとか
何だとか言っていて 「馬鹿じゃなかろか」と思っていた
その時は、16歳の僕は、しんから、本当にそう思った
「もう一度の人生」なんて それは「人生」だろうか?と

それが今では この歌を聴くと 僕なりに良くわかる
僕は23の時もこれを聴いて泣いたし 今もたまに泣いてしまう

僕の持っているトラックでは 陽水自身が泣きながら唄っている わかる

「人生が 誰の為にあるのかわからない」

僕もどれだけ母に迷惑をかけたことか
そんな母は、誰のために生きてきたのか
母はある意味では、僕のために生きたのだろうか?
僕のために生きることが母のいきがいだったのだろうか?
母の人生は母の為にあった
それはある面で間違い無いけれども、それだけだろうか?

「人生が二度あれば」僕もそう思う
それが 誰の為にあるのか わからないから

僕の人生がもう一度あれば やり直せれば
(それはそれで面倒だけども)やり直したいとは思う
言い換えれば 別の人生を 後一回くらいはやりたいと思う

でも、そういう事じゃない

誰の為の 誰の人生か分らないけれども
それならば それだからこそ
誰かの人生が「もう一度」有れば 良いと思う

僕の人生も 母の人生も それが誰の為にあるのかは
わからない ある意味では僕の為 母の為のものだけど
それだけなんだろうか?そうとは言いきれない

僕の為だけの人生であるならば
この一度きりで良いし 欲張ってもあと一回で良い

でも 僕の人生が僕の為だけでないとすれば
それは、何度有って良いか悪いか
僕の範疇じゃないと思うし
もしほんの僅かでも僕以外の為のものである部分があるのならば
二度有っても良いと思うのだ

3/30


ひさしぶりに 料理の話でも

魚のホイル焼き。簡単で旨い。

用意するもの

アルミホイル

魚の切り身2つ(サケ、甘塩タラ等)
むき海老等シーフード適量(なくても可)
しめじ半パック
ピーマン2個
たまねぎ半分

レモン輪切り2
レモン汁
しょう油
バター少々

1.魚の切り身は
白ワインとレモン汁をかけて
1時間くらいおく

2.たまねぎとピーマンは
好みのせんぎりなどにし、
しめじは、いしづきをとり好みの大きさに。
これらをホイルの上に並べる

2に魚とむき海老等をのせ、バターを添えて、
最後にレモンをのせてホイルを閉じる
不安であればホイルは二重にする

3.2をフライパンにのせ、中火で10分程度でできあがり。
特にフライパンを動かす必要はなくて、
時々様子を見るだけで、何もしなくていい。

ホイルごと皿に盛り、
しょう油をかけて頂く。

2004/3/6

猫は、たまに結構な怪我をして帰ってくる。
これで2回目だ。大したことはないが、脚に切り傷を負ったらしい。

犬とは違う。猫は、いつもは魚みたいに、豹みたいに、
触れないみたいに、きれいなのに、
怪我をしたら、もう死んでしまいそうなくらいに落ち込んじゃう。

犬は、猫ほど自分の身体に神経質でない。
毛がぼさぼさでも、少しノミがいても、気にしない。
そんなことを気にしてるのは、一部の人間だけだ。
たとえば馬鹿な「ペット」業者だとか。
けど、犬は案外大きい「怪我」はしないものだ。
したとしたらそれは深刻な事態が多い。

猫は、普段から、それこそ毛の一本まできれいにしてる。自分で。
細かいゴミがひとつついていても必ず取る。
だけど、たまに派手な怪我をしてくるみたい。

孤居動物だから、怪我の意味も犬とは違うと思う。

「怪我をしたら、残念だけど、群れから取り残されてしまう」
そういう無残な光景は、色々TVなどで見たことがある人も多いと思うし、
身近な生き物をみても、そういう光景があると思う。

けど猫は? 孤居性の生き物における怪我は?

確かに怪我をしたら、場合によっては生きていけないかもしれない。
けど、取り残されることはない。取り残される対象がない。
なにしろ独り。

独りでただ痛みを堪えていれば良い。
もしも治れば、立ち直ればいい。治らなければ、独り死ぬ。それだけだ。

人に飼われている猫は、飼い主を親猫のように感じ、
何歳になっても仔猫のような気持ちであるとも言う。
ウチのを見ていても、それはそうかなと思う。

だけれども、「ウチの猫」とか言ったって、
野良上がりなんだから、いつどこに出奔しないとも限らないし、
僕はそれでも良いと思っている。「良い」とか言う権限も僕には無い。
僕がどんなに淋しいとしてもそれで構わない。
彼女がそう望むならそれがBEST。
こういう気持ちは、犬との間には絶対できないと思う。

現状は仔猫気分で居るようだけど、
猫特有の、孤独な生き物特有の、性質、
それは確実に感じる。

足が早く治ると良いね。ウチの猫。

2004/1/1

●新年

新しい一年となった。

毎年の事ながら、
「それだから何だ」とも思う。

しかしこういう区切りになると、
懐かしい人から便りがきたり、
自然と気分も改まる。

区切りは区切りで大切なんだとそう思う。

僕は僕だ。

確かに、昔のようには表立って自分を露にすることは減った。
最近では仮面を被った僕しか知らないという人も多くなった。
それはそれで良い。なんでもかんでも露には出来ない。

しかし一方で、僕は僕であることに変わりが無い。
誰がなんと言おうと、誰が現れようと、どれだけ月日が流れようと、
僕は僕だ。そしてあなたはあなただ。

人は勿論変わっていく。昔の僕と今の僕は同じではない。
しかし違う人ではない。

どれだけ時が流れようとも、何がどう変わろうと、
僕は僕として生きている。死なない限りは。
僕はここにいる。

何か真剣に訊ねられれば、それがあなたの真剣な思いならば、
僕はいつでも真剣に答えよう。僕として。

あなたが気楽に話を振ってくれる日には、
何も考えず気の向くままに答えよう。
それもまた、紛れも無い僕として。

ここにおける僕は単なる気取り屋だと思うか?
きれいごとばかり言っている人間だと思うか?
僕はそういうつもりは一切無いが、一方でそう思われても仕方ない。
あまり生々しい話をしないクールな場所にしたいとは思っている。
それが気に入らないなら読まないで欲しい。
何と思っても構わない。あなたの感じ方は当然僕の決めることではない。

ただしそれでも、それにしても、僕は僕なのだ。
僕は僕のこの手で今この時にタイピングし、
貴方は貴方の心で好きな時にこれを読んで欲しいと、僕は願う。




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